2020/12/29

「ニューノーマル」に思うこと

こんにちは。

 

あと2日もすれば、2021年を迎えますね。

今回のコラムは今年最後、この特異な一年を振りかえり、来年のことを考えてみました。

 

 

2020年を振り返って

 

今年はわが社においても、規模が小さいながらも
リモートワーク環境下におけるコミュニケーションのあり方を追求し、
また、サービスモデルそのものも進化させるなど、
これまでにない取り組みを試みた一年でもありました。

ただ、今年を振り返るに、看過できない違和感を覚えたのはたしかで、そのことについて綴ってみたいと思います。

 

 

「ニューノーマルについて思うこと」

大げさでなく、今年、世界にとって最大の衝撃だったのは、

コロナ拡大ではなく、
コミュニケーションの制限が設けられてしまったこと
だと思います。

20万年前にホモサピエンスが誕生して以来、人類の生命維持
には、「代謝」と「コミュニケーション」というしくみが
根幹にあると言われてきました。

その一つが奪われることになったのは、人類史上初のことだと
思います。

いずれやってくる生命の危機とも言えるのではないでしょうか。

世間では、ともするとそれをニューノーマルとして受け入れる
べきといった一部風潮もあります。

しかし、
マスクで表情も見えない
モニター越しで相手の考えが読めない
言いたいことが伝わらない
といったストレスもあり、
ハラスメントやメンタル不調が発症するケースはむしろ増えています。

また、もっと心配なのは、
離乳食にさしかかった子供が、「咀嚼」の仕方がわからなかったり、
笑顔を知らない乳児がいたり、

あるいは、
同級生ができない学生や、家族に会えない老人

といったお話を聞きます。

「心の距離」までが生まれてしまう時代が、もしニューノーマル
のであるのなら

それはあくまで一時的な「措置」であり、
未来永劫に続く標準としては、けっして受け入れてはいけないもので
あると思っています。

言うまでもなく、コミュニケーションの目的は
「意思疎通」でも「伝達」でもありません。
それは、
双方の「心のつながり」を実感し、深めることにあります。

 

 

生身の人間として

たしかにリモワク時代のコミュニケーションはそれだけで目新しく、
それに乗っかることが時代に適応しているようにも見えますが、
本質は問題だらけです。

「新しいからニューノーマルであり、それらは無条件で受け入れるべき」
という姿勢は今後生きていくうえで、たいへん危険な思考です。

なぜ私たちがここにストレスを抱えているのか、
なぜ心が離れていく気がするのか、
なぜ気持ちが相手に伝わらないのか、という、
「生身の人間としての実感」と向き合うことが大切です。

今年は、コミュニケーション開発の専門的な立場からしても、

パンデミックより怖い現象を目の当たりにした思いでした。

経営者、リーダーの皆様には、これからのコミュニケーションのあり方について、

ぜひ思いを巡らしてみていただければ
たいへん幸いです。

 

 

来年は「辛丑」

来年2021年は、どのような年になるのでしょうか。
干支は「辛丑」。

ムダを省き、選択集中し、果断ながらも平常心をたもつ。

がキーワードとして見えてきます。

今年得た教訓を棚卸し、2021年はより人にとって優しい社会環境を共創できれば、これ以上の理想はありませんね。

「エグゼクティブ開発」を専門とする当社としては、

あらためて心のつながりを具体的に実感し合えるような取り組みを進めて参ります。

ゆくゆくは、エグゼクティブやリーダーにとっての
「総合エンタメ」企業になりたい
と、私個人の夢も描いています。

皆様のこれからの想い、夢を、次にお会いした時はぜひお聞かせください。

あらためて、本年はたいへんお世話になりました。

皆様にとって心穏やかで、幸多き年明けとなりますよう、祈念申し上げています。

どうぞ、良いお年をお迎えください。

2020/12/22

”甘え”が受けれられる世界へ

こんにちは。

 

いよいよ年末ですね。

今日、久しぶりに都心に出てきたのですが、なんと人出の少ないこと。。。

当社のある丸の内界隈でも、まるで静まり返ったような雰囲気でした。

 

”リモート”という呼び方に代表されるように、

今年は、「距離」というものにたいへん敏感になった一年でもありましたね。

 

そんななかで菅首相が訴えた「自助、共助、公助」という社会システム。

私は個人的に、当たり前のことだなあ、と思って聞いていました。

 

しかし、なぜかこれにケチをつける人たちがいるようです。

「順番が違う」とか「政府の役割を放棄している」といった、どこか浮世離れした意見の数々。

日本が民主国家であるかぎり、まずは「自分で努力してみる」は、なんの不思議もないことだと私は思うのですが。。。

 

今年最後のコラムテーマは、この現象に洞察を得た「甘えと依存」についてです。

 

■”甘え”が排除される世界

 

ビジネスの現場では、とかく”甘え”が排除されがちです。

「甘やかしてはいけない」

「甘えになるから、手を貸さない」

「甘ったれるな」

というセリフが、よく飛び交います。

 

どうやら私たちの認識には、甘えは本人のためにならないという既成概念があるようです。

 

いったい、それはなぜでしょうか?

私見ですが、それは以前のコラムでも触れた「世の中、公平でなければならない」という

都市伝説が信じられているからではないでしょうか。

 

「努力している人がいる一方で、甘える人は努力をしないからズルい」

 

こんな不公平感を感じるからではないかと。

 

甘える人は、自分で努力しない。

いつまでたっても一人前にならない。

甘えられる人がいつも忙しくなるから、迷惑だ。

 

などなど、”甘え上手”はとかく敵を作りがちですね。

 

しかし、そんな人にはこう問いかけたい。

「あなたは本当に、今まで誰の手も借りずに成長してきたのですか?」と。

断言しますが、そんな人はいないはずです。

 

自助は確かに大切ですし、それがものごとの順序でもあります。

が、行き過ぎた「自助の押し売り」つまり、「甘えの排除」は、

かえってその人の成長余地を奪ってしまう気がします。

 

その理由を挙げます。

 

 

■”数”では割り切れない関係性

 

甘えとは、人の好意をあてにする。という意味です。

 

まじめな人は、これを読んだだけで「ほら、人に依存しているということだ。そんなことは許せない」と言うかもしれません。

 

しかし、どんな人生でも、人に助けを求めたことがない人は、いないでしょう。

人の好意をあてにすることがいけないなら、人生なにがあっても自助で乗り切らなければならず、

なにもかもを自分で解決しなければならなくなります。

共助が必要なくなってしまうわけです。

 

いくら自助が大事だからといっても、それが行き過ぎるとたいへんです。

いっさい人の手を借りない。

助けを求めない。

 

つまり、甘えの排除は行きつくところ、

「自分で何もかもをやろうとする、かえって迷惑な、万能感をもった人」

を輩出することになります。

 

私たちは、誰も一人では生きていくことはできないはずです。

 

「自分一人で生きている」という人がいたとすれば、それは

水道や電気、食糧をすべて自分でまかない、

誰の所有物でもない土地に暮らし、

自分で養生した服をまとい、

霞を食って生きている仙人くらいです。

 

生きていくうえで、甘えというのはある意味、

・他者との円滑な関係を築く

・社会的なコミュニケーションスキルを磨く

・コミュニティの機能を効率化させる

ことにつながっていると思います。

 

人に甘える。つまり、好意をあてにする。

あてにされた誰かがそれに応える。

 

そのことによって、

win-looseでもなく、駆け引きでもなく、ギブ&テイクでもなく…

むしろそういったデジタル的な在り方を超越した、

人間どうしだから築ける、「数では割り切れない関係性」が成り立つのではないかと。

 

そういった理屈を超えた人間関係に成り立つコミュニティもまた、

人にやさしく機能をするのではないかと思います。

 

 

■”依存”との折り合い

 

ところが、その甘えが行き過ぎたとき、”依存”となって

これまた人間関係を壊します。

 

依存とは、「~依存症」と呼ばれるように、それなしでは生きられないレベルにまで

頼り切ってしまう生き方です。

 

甘えと依存の違いは、

まさに「自助」があるかどうかの違いだと思います。

 

甘えの前提は、

自助がまずあり、そのうえで人の好意をあてにする

という秩序があると思います。

 

が、依存は違います。

自助がなく、それなしでは生きていけないという、いわば「全面的に自分を投げうつ」姿勢です。

ひとつのこと、一人の人がなければ、自分が消えてしまう恐れを常に抱えた生き方です。

 

組織としては、こういう人を生み出すと厄介です。

なぜなら、「依存されることが好きな人」もまた存在するからです。

 

無意識のうちに、手を指しのべ、その人の肩代わりを本能的にしてしまうような、お人好しがいるからです。

しかし、この二者の関係は、きわめて「デジタル的な関係」と言えます。

 

どちらかが、どちらかの力を一方的に抜いていくからです。

つまり、依存する側が、される側のパワーをどんどん吸い取る「マイナスのみの関係」とも言えます。

 

甘えと依存の折り合いを見極めるには、

「まずは自助」という概念を、理解してもらうことが必要です。

 

 

■余裕のある人たちがいる環境

 

甘えなら、ある程度許してあげませんか?

しかし、それが依存なら、自分と組織のために、自助のためのサポートをしてあげましょう。

 

甘えをある程度許せるような、余裕のある人たちがいる

そんな環境だと素敵だなと思います。

 

たいへんなことが起きた2020年を経て、来年は、

そんな甘えが笑って受け入れられる、心に余裕のある世界

になってほしいと願います。

 

 

本年もこのコラムをお読みいただき、ありがとうございました。

 

また新年に、このコラムでお目にかかれればと思います。

 

 

どうぞ、良い年末年始をお迎えください。

 

 

 

◆◇◆ 今週の箴言(しんげん)◆◇◆
(ラ・ロシュフコーより)

われわれの美徳は、ほとんどつねに、
仮想した悪徳にすぎない。

2020/12/15

ココロの断捨離を今こそ(私が捨てた常識)

こんにちは。

 

2020年も残りわずか2週間ほどになりましたね。

今は世間がひとつの同じ話題のみで騒々しくはありますが、せめて年末年始にかけては、ひとりひとりが心静かな時間を持てると良いですね。

 

今年は国内ばかりでなく、全世界で文字通りの「パラダイムシフト」が起きました。

しかし、時代が変わったにも関わらず、どういうわけか頭がついていなかい、という実感をしていませんか?

 

多くの人に好まれる断捨離ですが、なにも「モノの整理」だけに当てはまることではないかな、と思います。

つまり、「ココロの断捨離」というものが、今まさに必要なのではないでしょうか。

 

年末の大掃除をして気持ちがスッキリするように、

頭と心を直接整理すれば、この時代の変化も、もっとラクラクと受け入れられる気がしています。

 

今回は、騒々しかった今年の暮れにふさわしく、

ココロの断捨離をやってみようかと思います。

 

 

■疑わしき常識は思い切ってゴミ箱へ

 

ココロの整理といっても、心を入れ替えようとか、そんな陳腐で難しいことをしようとは思いません。

 

私はできればこれからの時代を、しなやかに生きていきたいと思います。

そのためには、そんな私の足を引っ張るであろう、”疑わしき常識”というのものを列挙し、思い切って捨ててしまおうと思った次第です。

 

それには、これまで当たり前すぎて見過ごされてきた「常識」を、足元から疑ってみる必要があります。

私が実際、多くの企業や組織と関わるなかで、「ここにこだわっていたら、時代において行かれるな...」と痛感しているいくつかの常識を、その理由とともに挙げます。

 

さらに言えば、これらは疑うべきなのではなく、もはや捨てるべき常識とも言えます。

挙げればキリがないのですが、今回は一部を共有させていただきます。

 

 

■ゴミ箱行きの「旧常識」

 

疑わしき旧常識その①

「不公平はいけない」「公平でなければいけない」

 

これはほぼ”都市伝説”です。

もともとこの概念を私は信じていませんでしたが、

 

人類はコロナ禍で痛いほど思い知らされたと思います。

世界では、救われる命もあれば、見捨てられる命もありました。

 

世の中ではコロナ禍であるなしに関係なく戦争が続けられ、

命を落とす人もいれば、助かる人、そして命を奪う人もいます。

 

身近なことで言えば、国の法律、会社の評価基準など、

自分が身を置いている環境の判断基準によって、私たちの処遇は良くも悪くもなります。

 

つまり、姿形ははっきりと見えませんが、

私たちは、何かしらの見えない大きなピラミッドのような構造の中にいて、

属している階層によって、上の誰かさんから”生殺与奪”をされる側にいます。

 

もっといえば、

人類が霊長類の長というのは、人類が勝手に言っているだけのことで、

生身で生きていくとすれば、相変わらず弱弱しいホモサピエンスの子孫であり、

その辺の動物に食べられてしまう恐れだってあるわけです。

 

「あの人だけが特別待遇なのは、不公平だ」

「私だけ認められないなんて、不公平だ」

こういう類いの不平不満は、「世の中、公平でなければならない」と思っている証拠です。

 

しかし私は近年、こうした類の不平不満を感じたことはありません。理由は、

 

世の中はそもそも不公平である

 

と理解しているからです。

 

なぜ公平でなければならないのでしょうか。

法の下の平等は保証されていますが、待遇は公平でなければならないなどとは、どこにも書いてありません。

 

案外それをすんなり受け入れことで、世の中をさらにクレバーに生きていくことができるかもしれませんね。

 

 

疑わしき旧常識その②

「努力をすれば報われる」

 

50年近く生きてきて、さらに人をサポートするお仕事をしていて、

「これはないな」と思う、幻のような通念です。

 

努力をしても報われないことは確実に存在します。

 

例えば、プロスポーツの世界。

何百万人という競技人口がいる分野で、みな同じように努力しているのに、

プロになれるのは1%を下回る確率です。

人の倍ほど努力しても、人並みしか努力していない人がトップになることはあります。

 

その原因はいくつかあると思います。

例えば、努力の仕方が間違っている、とか。

例えば、才能がそもそも足りなかった、とか。

 

しかし、もっとも大きな問題は、

 

努力すべきこととそうでないことの、見極めがついていないこと

 

だと私は思います。

 

例えば、私の長男ですが、プログラミングでは高校の代表に入るほどの腕を持っています。

その長男が、「古文のテストの結果が悪から、古文で100点を取れるようにがんばる」と言ったとしましょう。

 

私なら、その意思は尊重しながらも、やんわりとやめさせます。

その努力にかけるべき的(まと)が違うからです。

 

努力すべき的とは、

 

自分が人並みの努力で、人並み以上の成果を出せることです。

 

つまり、いくら苦手で嫌いなことを、人一倍努力しても、それが得意で大好きな人には、

まったく歯が立たないのです。

 

古文のテストで満点を取ろうとするエネルギーは、

プログラミングで全国大会に出場し、上位にランクインするエネルギーに転化すれば、

それなりの結果が出やすいように。

 

努力すべきことを見誤らない

 

このことが大切だと思います。

 

やっても報われないことに貴重な時間もお金も体力も浪費し、

気づけば人生の大半が過ぎていた、ということにならないよう、

見極め、あきらめも、

人生の戦略だと思います。

 

 

 

■まだまだある、検証されていない”洗脳用語”

 

私たちの価値観は、おおむね自分の体験や経験したことから得たことが多いです。

 

そしてその中には、目上や影響力のある人に言われた、

依然パワーをもったまま、検証をされていないような常識

が頭にこびりついていたりします。

 

 

「全員一丸となれば道は開ける」

(足並みをそろえたとき、玉砕のリスクも高まる)

 

「リーダーは背中を見せてついて来させる」

(言葉で語れないリーダーの、常套的な逃げ口上)

 

「誰もがリーダーになれる」

(誰もがリーダーになったら、実務部隊がいなくなる)

 

などなど。

疑わしき常識は、以前そのパワーをもったまま、検証されないで語り継がれています。

 

パラダイムシフトは待ったなしで、私たちに「変容しなさい」と訴えてきています。

 

 

 

 

 

自分たちの口から何も考えないで思わず出てしまう、”旧ノーマル”の常套句には、

よくよく注意が必要です。

 

言葉にはパワーがあります。

 

検証し、選択していきましょう。

 

 

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

皆様の心穏やかな年末年始を祈りつつ。

 

 

◆◇◆ 今週の箴言(しんげん)◆◇◆
(ラ・ロシュフコーより)

老人はよい教訓を言いたがるが、

それは、もう悪い手本を示す年ではなくなったことを、
ひそかに自慰するためである。

2020/12/07

ルーティンこそパフォーマンスの源泉

こんにちは。

 

自宅近所の井の頭公園は、紅葉がピークを迎えています。

朝ここでトレーニングをしたり、瞑想したりするのが私の日課ですが、凛とした冬らしい空気を吸い込みながら、ふと「今年はいったい何をやっただろうか?」と考えました。

 

例年だとこの時期、「ああ。。。今年ももうすぐ終わりだ。今年もがんばったな」などと思うものですが、今年はその感慨はまったくと言って良いほどありません。

行事という行事がすべてキャンセルとなり、季節や時間の経過を感じる節目がなかった一年のような気がします。

 

 

さて今回のコラムは、これまで続けてきた「信頼関係」についての考察を、もう少し掘り下げます。

 

■「安定感」こそが、信頼を得る。

 

私の周りには、「何があっても、例外なく決めたことを淡々とやっている」人が数人います。

いずれも、尊敬すべき人たちです。

 

例えば、

・毎朝、5時台に朝日を浴びながらトレーニングをしている人

・毎朝、かかさず座禅を組む人

・会食をしていても、9時で必ず切り上げて帰宅する人

・飲み会の2次会には行かない人

・お酒は最初の乾杯だけしか飲まない人

・毎日、メルマガを配信する人

 

なかには、

・目覚めて最初の一歩を右足から踏み出す人

・毎朝トイレと玄関の掃除をして出かける人

・離れて暮らす奥様に、毎日決まった時間に電話をして愛情を伝える人

 

などなど。

 

いずれも、皆さん口をそろえて「これがルーティンだから」と言います。

 

 

■ルーティンのすごさ

 

じつは私、ルーティンが大の苦手でした。

決められた時間に決められたことをすることに抵抗を感じてしまい、どちらかというと、”気分”で決めて物事に取り組んしまう方でした。

 

しかし経営者となり、私の周りには、頑なに「ルーティン」にこだわる人がたくさんいるのを見聞すると、

ルーティンのすごさがあらためてわかりました。

 

それは、決めたことを淡々とやることで、

・鉄の意志のような、メンタリティが鍛えられる

・行動変容が定着化する

・「気分で選ぶ」ことが、エネルギーの無駄遣いだと気づく

さまざまなメリットを感じるようになったのです。

 

そして何より、私が実感したのは、こんなことです。

 

雨が降ろうが風が吹こうが、飲み会が盛り上がろうが、

いっさいの例外を作らず、決めたことを淡々とこなすその姿こそが、

見る人たちの心に、安心感を与えるということです。

 

つまりは、「安定感」という信頼感。

 

そんな気持ちを、周りが持てるのです。

 

 

そして、ある経営者の知人から、こんな話を聞いたことがあります。

 

例えば朝目覚めて、「今日何を着ようか」と考え、迷う。たったこれだけのことで、一日分の集中力の数パーセントを使ってしまう、と。

これを聞いて、なるほどな、と思いました。

 

有名な話ですが、前Apple社の故スティーブ・ジョブズ氏は、いつだって「黒のタートルネックに、ジーンズ、白いスニーカー」といういで立ちでした。

これは、「余計なことに集中力を使いたくない」という、意思の表れです。

世界を代表するほどのイノベーターが、そんなことでたった数パーセントでも集中力をそがれると、それこそ大損害でしょう。

 

私の頭の中で、知人の話が、このエピソードとつながったのです。

その瞬間、「気分で決める」ことを極限まで減らしてしまおう、と思ったわけです。

 

思えば、

「やろうか、やるまいか」と迷うことは、それ自体、力をそがれてしまうことだな、と。

結局、どっちかを選ぶしかありません。

 

なのに、それについて、時間と集中力を浪費する。

そして、本当に集中して取り組むべきときに、その集中力が空っぽだったという状態に。。。

 

経営者として、それはとてもばかげた行為だと思いました。

 

 

■私が服もアプリもフレンドも捨てまくった理由

 

私が最も力を注ぎたいのは、会社のこと、お客様のことです。

自分の着る服、食べるもの、起きる時間、このようなことに力をそがれている場合ではないな、と。

 

ですから、まずやったのが、着るものについてです。

つまり、服選びという”浪費”をやめました。

なるべくシンプルで、人から評価されにくい、単色の組み合わせだけ済む服を残し、無駄な装飾や模様のある服は、捨てました。

1シーズンに3~4パターンの組み合わせができれば、じゅうぶんです。

(もちろん、服が大好きな人は、けっして無駄な浪費でなく、かえって気分をあげてくれるものだと理解しています)

 

次に、スマホのアプリを3割削除しました。

気づけばほこりがたまるように、自分にとってはどうでも良い、惰性でダウンロードしたようなアプリが何十個とありました。

なんだかんだ、すき間時間にスマホを手にし、しかも、どうでも良い情報に目をやっている”浪費”もやめました。

 

 

さらに、SNS上でやたらと増えていた、いわゆる「友達」を半分近く減らしました。

例えばFacebookは、いつの間にか1,300人くらいの「友達ではない友達」がいましたが、今は700人ほどです。

知らない人、お互いに意味を持たないつながり。

そういったものは「縁」ではありません。

不要な気遣いだけでつながっているのは、私にとっては、お互いにいてもいなくても変わらない存在でしかありません。

 

などなど。

 

自分の力をそがれてしまうような、さまざまな行為やノイズをできるだけ減らし、

本当に集中すべきときに、力が出る環境を整えようと思いました。

 

 

■私のルーティン(一日の始まり)

 

そして、自分にとって意味のあるルーティンを始めました。

 

・朝起きてすぐに公園に出る

・決まったベンチに腰かけて瞑想をする

・寒くても暑くても、頭から冷水を浴びる(沐浴)

・ゆうべ決めた服を着る(ローテーションで決めている)

・朝食は毎日決まったメニューをとる

 

例えば、ここまでが朝のルーティンです。

「迷い」によって朝から集中力を削がないための、鉄のルールです。

 

日中から夜にかけても、いくつかのルーティンを決めています。

 

そしてもちろん、このコラムも、週のルーティンのひとつです。

けっして、気分で書く書かない、を決めません。「

 

週に一度の筋トレも、同じです。

気分が乗らないから行かない、ということはしません。

 

そんな不安定さを、お客様や周りの人たちに見せるのは、むしろ人格を疑われてしまうことになるでしょう。

 

 

こうして大の苦手だったルーティンをこなすことで、次第にメンタルや体調の安定を実感しています。

実際に、去年9月、人知れず風邪を引いて(夕方発症して、夜中に完治)以来、病気はしていません。

 

こうしたルーティンは、例えばイチロー選手のように、一流のスポーツプレイヤーでもよく見られる行為ですね。

見方によっては、パフォーマンスを出すための”儀式”と感じさせるほどの神聖さすらあります。

 

■ルーティンこそパフォーマンスの源泉

 

その姿こそが、見ている周りの安心感を誘います。

人間、生きていれば、思い通りにいかないことは少なくありません。

辛いことだってあるでしょうし、気分が滅入ることだって、体調がすぐれないことだってあります。

 

しかしここでいう「安定感ある人」とは、自分に起きるそれらすべてを受け入れたうえで、

それでもなお例外を作ることを自分に許さず、「いつも通り」のことをやる人たちなのです。

 

最後に、あるエピソードをご紹介します。

 

私は熊本という土地が好きで、仕事でもプライベートでもよく足を運ぶのですが、熊本市の中心街に、ある有名な喫茶店があります。

度々メディアでも取り上げられ、全国のコーヒーマニアが通うほどのお店で、私も何度か伺ったことがあります。

 

創業は1964年、最初の東京オリンピックが開催された年だそうです。

お客が5~6人も入ればいっぱいになってしまうような小さなお店なのですが、80才を超えたマスターがひとり、たったひとつの種類のコーヒーを淡々と客に振舞っています。

 

そして驚くのは、この喫茶店には定休日がないということ。

ある記事によれば、マスターがお店をお休みにした日は、50年以上の間でわずか10日余りとのことです。

 

私は好奇心に任せて、マスターと直接お話をさせていただきましたが、印象に残っているのは、マスターの”眼光”の強さ、そして当時に仕事にかけるプライドの高さです。

 

「どの喫茶店やカフェにも、うちのような味は出せない」

と言い切るマスターの言葉の強さは、50年以上の間、いっさい妥協をすることのなかった仕事ぶりがうかがえます。

 

まさに、品質においても仕事への姿勢においてもいっさいのブレを許さない「安定感」を、身をもって体現している方だと、深い感銘を受けました。

 

地元の知人が言っていました。

「あの喫茶店の良さは、いつ行っても営業している、という安心感なんだ。そして、いつ行っても同じ味が味わえるという安心感でもある」と。

 

 

ルーティンこそ、パフォーマンスの源泉です。

それを50年以上、身をもって示してくれている人のエピソードでした。

 

 

 

本日も最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

◆◇◆ 今週の箴言(しんげん)◆◇◆
(ラ・ロシュフコーより)

 

われわれが小さな欠点を認めるのは、

大きな欠点を持っていないと、人に信じさせるためである

2020/12/01

「傲慢さ」のメカニズム

こんにちは。

気づけば師走が始まりましたね。

 

2020年、これほど季節の移ろいを感じない一年もなかったように思います。

しかし今朝、トレーニングコースである井の頭公園で、色づく紅葉を目にしたとき、ふと思ったことがあります。

「世の中でどんなことが起きようと、自然は淡々と、決まったタイミングで決まった変化を遂げるんだな」と。

沸々と、自分の中に、自然への畏敬の念が湧いてきたような感覚を覚えました。

 

ここ最近のコラムでは、この「淡々とした安定感」がいかに尊いものなのかを、お伝えしてきました。

 

何があろうと、どんな状況であろうと、派手さはなくても、普通に淡々と成果を挙げ続ける人が貴重です、と。

 

 

■普通の人たちが持つ強み

 

そんな風に私が思う理由は、他にもあります。

 

それは、彼ら”普通の人たち”が、「傲慢さを排除する力をもっている」という点です。

 

 

私たちは経験を積むにともなって、責任の重さも増えていきます。

周囲からの責任や期待を背負い、それとともにこなせる仕事の量も増えていきます。

こなせる仕事量が増えてくると、次第に周囲に対する影響力も大きくなってきます。

影響力が大きくなれば、周りからの注目や賞賛を浴びる機会も増えていきます(もちろん、それに相応しい厳しい目も向けられますが)。

 

すると、それに比例するように、自分の中にある種の「傲慢さ」が芽を出します。

 

 

■傲慢さが目を出す瞬間

 

この傲慢さというのは厄介で、無意識下で芽生えます。

無意識なので、知らず知らずのうちに自分から放たれる言葉が横柄になっていたり、行動が乱暴になっていたりします。

そして、たいてい自分では、そんな立ち居振る舞いをしていることに気づきません。

 

こうして、周りから見て明らかに「あの人は傲慢だ」と言われる頃になると、

必ずといって良いほど事故やトラブルの類が起き始めるのです。

 

それは例えば、

チームの業績が下がったり、

部下がメンタルヘルス相談を窓口に持ち込んだり、

納品や品質で問題が発生したり、

重要顧客からのクレームが発生したり、

といった結果をともなってやってきます。

 

こうした痛い思いをして初めて、本人は、自分が傲慢だったことに気づくわけです。

 

 

■「なんでこんなことができないんだ?」私が傲慢化した30才のとき

 

私自身の経験ですが、30才になった頃の会社員時代の話です。

 

当時勤めていた会社で私は、明らかに周りが「異常」と思うような昇格を遂げました。

成果による評価が重んじられていた会社であったため、私が挙げた実績に応じて、あれよあれよという間に、30才にしてある事業部門を任されるようになっていました。

部下は30名を超えました。

 

この話の筋からすでに想像できるように、私もこの頃、自分でも気づかないうちに、傲慢になっていたのです。

営業実績では社内の誰にも負けない自信があり、その自信がさらに部下に対する配慮のないい言動や、必要以上の指導の厳しさにつながっていきました。

 

「なんで、こんなことができないんだ?」という類のセリフが、口から出るようになっていたのです。

 

その頃の部門の状態は、報連相を始めとした情報の共有量が極端に少なくなっていて、リーダーである私自身、現場で何が起こっているのかを正直わかっていませんでした。

現場は現場で、自信がありすぎる上司というのは厄介な存在です。

リーダーにとって不都合な情報はなるべく知られないよう、現場のある部分で情報が滞っていたのです。

そのために、私がリーダーとして下さなければならない”情報”という判断材料は、ほとんど手元にありませんでした。

 

「何かおかしい。何かが自分の知らないところで起きている」。

 

異様なまでに静かな現場を日々見ていて、そんな嫌な予感がよぎりました。

そしてはやり、予感は的中し、事故は起きてしまいました。それも、立て続けに何件も。

 

部門内でのハラスメント相談やメンタルヘルス発症が、次々と社内相談窓口に持ち込まれたのです。

挙句、顧客を巻き込む大トラブルまで起きてしまいました。

文字通り、気づいたときには遅かった、という状況です。

 

事ここにいたって、ようやく私はリーダーとしての自分のありようと向き合わざるを得なくなりました。

そのときまで、自分の傲慢さに気づくことができなかったのです。

 

 

■傲慢さは情報を遮断する

 

その後、上司や部下、果ては顧客にいたるまで、多くの人たちに力を貸してもらいながら、なんとか状況を回復させることはできましたが、それにしても支払った代償は大きかったといのが実感です。

この経験を通して私が学んだのは、ひとつの真実です。

 

傲慢は情報を遮断する

ということです。

人は影響力を持ち始めると、知らず知らずのうちに傲慢さが芽生えます。

その傲慢さは、今後は周りに”負”の影響を与え始めます。

傲慢な人には、報告や相談、あるいは提案が極端に減ります。

 

こうして、情報の流通が滞ってしまうのです。

 

情報の通通量が減るということは、リーダーしての意思決定のための判断材料が減る、ということになります。

当然、意思決定には大きなストレスがかかりますし、下された判断に常にリスクがつきまとうことになります。

乱暴な言い方をすれば、「当てずっぽう」や「理由のない勘」で、意思決定しなければならなくなるのです。

 

そんなリーダーに巻き込まれるチームメンバーは、迷惑でしかありませんね。

つまり、「傲慢さ」もまた、みずからの状況を結果として不安定に陥れる要因になります。

傲慢さはその人を、周囲からの忠告や提言に耳を貸さなくさせ、独りよがりに仕立てていきます。

情報を遮断し、目の前の物事を、ひとつの方向からしか見えなくさせます。

 

こうなると、仕事も人生も多様な見方が失われ、色あせ、陳腐なものにしか映らなくなります。

 

結局、傲慢になったリーダーは、みずからの意思決定を鈍らせ、仕事を陳腐化させていくのです。

自分で自分の首を絞めるとは、このことですね。

 

 

■謙虚さを取り戻すなら

 

あらためて謙虚さについて、私たちが考える機会になればと良いですね。

 

そしてこの謙虚さを取り戻すには、私は2つの方法があると思っています。

 

1つ。「感謝をする」こと

1つ。「フィードバックを受ける」こと

 

そして、この謙虚さによって、受け取れるメリットは多くのことがありますね。

まず何より、ものごとへの見方が多様化できること、に尽きるのではないかと思います。

 

なぜ上記二つが謙虚さを取り戻すために有効なのかは、次号以降で触れたいと思いますが、

物事への新鮮な感覚を失われない、ということは、どこまでも自分なりの創意工夫の余地が生まれ続ける、ということです。

 

つまり、

 

謙虚さにによってみずからが成長し、持続的な能力開発も可能になる

 

と思っています。

 

 

今さらながらですが、

 

身の回りのことに感謝し、

耳の痛いことを言ってくれる人からフィードバックを受けましょう。

 

 

 

 

◆◇◆ 今週の箴言(しんげん)◆◇◆
(ラ・ロシュフコーより)

 

しばしばらわれわれは、

 

われわれの最も美しい行為をも恥ずかしく思うことがある。

 

その行為を生み出したすべての動機を他人に見られた場合には。

2020/11/23

”好不調の波”が大きい人は信用できない?

こんにちは。

 

この3連休は、全国的に天候に恵まれましたね。

 

国内では新型コロナ拡大の第3波と大騒ぎですが...

個人的には、もうこれ以上、新型コロナに関する情報を報道することに意味はないのではないか、と感じている今日この頃です。

7カ月も前から私たちは、自分たちがどんな対策ができるのかを学んでいますし、それ以上の新たな対策は提唱されていません。

ですからこれ以上、何を騒いでも今は意味がない気がしています。

情報には多く触れない方が良いときもあるのだと、私は思っていますし、今がその時期だとも思っています。

 

さて今回は、そんな世間の「気分の浮き沈み」を眺めていて、洞察を得たことを書いています。

前々回の「天職」、前回の「職業観」についてのお話は、主に、エグゼクティブの方から若手社員に向けて語っていただきたい、私なりの真理をお伝えしました。

琴線に触れた方々から、熱いメッセージやリアクションをいただくことが増えて、こうしたテーマについて、多くの方々が同じような感覚をもっているのだな、とうれしく思っています。

 

さて、今回も、やはり若手向けに語っていただきたいシリーズです。

 

 

私が「好不調の波が大きい人は、まだまだ二流だ」と思う理由についてです。

 

 

■良いときもあれば、悪いときもあるらしい

 

世間には、「人生、良いときもあれば、悪いときもある」という通説があります。

 

特に、それに異を唱えるつもりはありません。

たしかに、程度の差こそあれば、調子の良いとき悪いとき、というのはあるのでしょう。

 

そのときの体調、メンタルの調子、付き合っている人や影響を与えてくる人、など様々な原因があって、そのときのパフォーマンスに波をつくるものです。

 

しかし、私があらためて考えたいのは、

若手社員に向かって、「仕事には、好不調の波がある」と本当に言い切ってしまって良いの!?

 

ということです。

今回はそれについての考察です。

 

 

■好不調がある人は信用できない?

 

私たちのキャリアや人生では、好調なときもあれば不調なときもあります。それはまるでバイオリズムのように、上下動を繰り返しているように見えます。

そしてできれば、好調である時期をできるかぎり長く維持し、不調のときはすぐにでもその時期を終わらせたいと思うものです。しかし...

 

「好不調の波があるのは当たり前」という一般的な認識は、真実なのでしょうか?

 

私は、非常に疑わしいと思っています。

良い調子、悪い調子、というのはたしかに自らが実感をすることもあれば、そんな自分を見て「彼は今、絶好調だね」あるいは「最近、スランプ気味だね」と周りの人たちが評価することもあります。ところが、

 

好不調があるというのは、ある一面から見ると、「不安定」な状態とも言えます。

 

もっといえば、ビジネスパーソンとして好不調の波がある人は、見る人から見れば「信用できない」と思う人もいます。その理由は、単純です。「ビジネスは、安定して一定の成果を挙げ続けないといけない」からです。

 

私は30代の頃、こんなことを経験しました。

会社員として営業を担当していた頃の話です。当時のその会社は、営業の統括本部から支店ごとに売上目標が割り振られ、それが毎月、個人のノルマとなって降ってきていました。ほぼどんな企業とも大差のない、目標の与えられ方です。

 

私の同僚の一人に、とても動きが“派手”な営業担当がいました。

派手、というのは、売上の好不調の差が激しいという意味で、ある月は目標を大きく上回ることもありましたが、ある月になるとまったくと言って良いほど売上をつくることができません。

毎月の営業会議では、良くも悪くも彼は目立っていました。「先月はあれほど売り上げたのに、今月は見る影もない」という印象を、私も抱いていました。

ただ、明るく人懐っこい人柄で、顧客からも同僚からも評判は上々だったので、たとえ売上が悪く、目標にはるか達していないときでも、必要以上に本部から責められることもありませんでした。

 

そして、そんな彼の年間の平均売上というのが、意外なものでした。本部から、全国の年間売上ランキングが発表されると、彼の位置はおおむね、いつも“中位の中”くらいに収まっているのです。いわゆる「普通の営業マン」の成績なのです。

いつもたくさんの人からの注目を集める存在であるはずなのに、結果はいたって普通、なのです。

 

では、今の私の経営者という立場から、当時の彼に大きな仕事を任せようと思うか、と問われれば、答えは明らかに「No」です

 

理由は単純で、「不安定だから」です。

あれほど目立つ動きをしておいて、結果は悪くはないが良くもない。そうであればむしろ、見ているこちらをドキドキハラハラさせることなく、いつも淡々と「普通の成果を挙げてくれる普通の人の方」が、ありがたい存在とも思えます。

余計なストレスを与えられなくて済みますし、何より、見方によっては「安定感がある」と見えるからです。

 

気分や体調、あるいはプライベートの諸事情に振り回されることなく、一定の成果を挙げ続ける

という意味では、この「普通の人」は実際、非常に貴重な存在だとも思うのです。

 

 

■意外と知られていない信頼を勝ち得る原理原則

 

「好不調があるのは当たり前」という認識が疑わしいのは、そんな理由からです。

そしてじつは、そんな見方をするのは私だけではありません。企業の経営側として現場に目をやったとき、「不安定な要素はできるかぎり排除したい」、と思うのはやはり当たり前の感覚なのです。

 

それが証拠に、皆さんの在籍する会社の役員の顔を思い出してみていただきたいのです。

企業役員ともなれば、さぞかしカリスマがあって、人の何倍も仕事ができる人なのだろうと思うかもしれません。しかし実際は、皆さんが今想像した通りです。

 

誤解を恐れず言えば、「顔を思い出せるか出せないか」くらいの存在感なのではないでしょうか?

仕事の好不調の波をできるかぎり抑えて、一定の成果を出し続ける人こそが、役員にまで登り詰めることができる人たちです。

反対に、カリスマをもって、結果の激しい振れ幅で周りをドキドキハラハラさせるタイプの人たちは、行けても“部長どまり”なのです。

 

なぜなら「安定感」というのは、誰もが発揮できるものではなく、安定感こそ、信用を勝ち取るための最大のカギだからです。しかも、その原理原則を知る人は、無自覚でやっている人以外、ほとんど知ることのないものだと思います

 

好調な時期を長く維持することができれば、たしかに理想でしょう。しかし現実として、それは難しいのではないかと思うのです。

 

好調を長く維持するよりも、好不調の波をできるだけ緩やかに抑える。

 

これこそが、周囲の信頼を勝ち得る原理原則だと思います。

 

いつ、どんなことがあったとしても、振り回されることなく、淡々とやるべきことをやる。

その気になったから、とか。

モチベーションが上がったから、とか。

切羽詰まったから、とか。

 

そんな理由で仕事を進めたり止めたりするのであれば、当然ですが、一定の安定した成果などつくれません。

 

 

■決め手は「安定感」

 

気分が悪かろうが、

プライベートや人間関係で嫌なことがあろうが、

体調が多少悪かろうが、

いつも、決められたことを、決められたときに、淡々とやるのです。

 

特に、この時期の世間のように多くの人が浮足立っているときに、そうした姿勢を貫く人がいれば、その姿勢こそが周りを安心させ、信頼を引き寄せることになるでしょう。

 

例えば、誰しも経験があるように、

嵐や台風に見舞われて不安でしかたない夜。ラジオをつけたとき、いつものナビゲーターがいつもの調子で語りかけてくる。そんなとき、どこかホッとしませんか?

何が起きようと、例外なくブレない人というのはつまり、「安定感」を感じさせるのです。

 

私もこのコラムを、何があっても119回まで毎週書き続けきました。

それはやはり、浮足立った世間の中で、少しでも「冷静」であることを自分にコミットするためであり、

何があってもいつも一定のリズムでコラムが届く、というわずかでも安心感を皆さんに得ていただきたいためでもあります。

 

けっして、そのときの気分でやるやらないを決めない、ということを自分で決めています。

 

 

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

 

◆◇◆ 今週の箴言(しんげん)◆◇◆
(ラ・ロシュフコーより)

自己の腕前を人に示さないことこそが真の腕前である

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