2020/07/26

「未来予測」は外れる。だからこそ。

こんにちは。

 

大雨をともなう長かった梅雨が、ようやく明けようとしていますね。

コロナ、災害…多くの人にとってこの夏は、深く記憶に刻まれそうです。

 

そして、まさに有事の今、これまで水面下でなんとなく放置されてきた様々な問題が、表面化しています。

横暴を尽くす中国を中心にできあがりつつある、世界各国による包囲網。

米国で煽られまくっている、偏見と差別。

日本においては、いつも世間ずれしていて、何もかもが後手に回る政府の遅鈍さ。

 

ひとつの見方ですが、コロナウィルスはその存在をもって、世界中のいろんな課題や矛盾を浮き彫りにしたように思います。

 

私たちはこの局面を、どんなスタンスで乗り切っていけば良いのでしょう?

 

それには、2つの重要なファクターがあると思います。

 

ひとつは、未来を予測しないこと。

もうひとつは、ポジティブであること。

 

少なくともこれら2つは、これからの時代をしなやかに生き抜くために必須になると思っています。

では、その理由をこれから述べていきます。

 

では、ひとつめのファクター。

「未来を予測しないこと」

 

今回のパンデミックを体験した私たち人類は、「未来は予測できない」と心の底から思い知ったと思います。

もちろん私たちは、「将来、自分はどうなるの?」とか、「未来の社会はどうなるの?」と、自分の身に起こることが気になって仕方ありません。

 

私もやはり、毎年暮れになると、未来予測の類の本を数冊読むのが恒例です。

たしかに、これらの本からは、世の中のおおまかなトレンドをつかむことはできます。

 

ところが、私が昨年末に読んだどの”2020年予測”本にも、

「パンデミックが来年やってくる」とは、ただの1行すら書いてありませんでした。また、

「東京オリンピックが開催されない」と、ただの一言も書かれていませんでした。

 

予測本の目的は、いったい何でしょうか?

それは、すぐ先の社会をできるだけ正確に予測して、読者にきちんと備えをさせる、ということでしょう。

 

その意味でいうと、世の中のほとんどの未来予測本は、目的を果たしていない、紙くずだったとも言えます。

 

つまり、読者に対し、出版わずか1カ月後にやってきたパンデミックに、何も備えさせることができなかったのです。

また、東京オリンピックが開催されなくなり、好景気どころか最悪レベルの不景気がやってくることに、何も備えさせることができなかったのです。

 

なにも私は、出版社に文句があると言っているわけではありません。

商売ですから仕方ありません。それよりも、

「これほどの専門家たちの英知を集めたとしても、結局、予測は外れるんだ」と、驚きとともに、小さく決意しました。

「自分はもうこの類の本は読むことはない。そんなお金があれば、自分の確実な未来を創るために、使おう」と。

 

未来は、予測できないのです。

予測しても外れます。

予測できないのであれば、すべきことは限られてきます。

 

予測して「当たった、外れた」というゲームから、さっさと抜け出すことです。

予測が当たろうが外れようが、自分が今できることに集中することです。

 

そのためには、あらゆる前提条件を疑う必要があります。

前提条件とは?

たとえば…

物議をかもしそうですが、「人生100年」という当たり前すぎる論調です。

私はハッキリ言って、これを疑い続けています。

 

もっとも、この主張に異論を唱える人は、今は圧倒的に少ないと思います。

たくさんの根拠があって専門家たちは、そう言っているのでしょうから。

 

しかし、ちょっと待ってください。

 

いったい、誰がこんなことを確実に実現させてくれるのでしょうか?

本当に、自分は100歳まで生きられるのでしょうか?

そう思っていた矢先、コロナウィルスに感染したり、災害に巻き込まれたり、狂った人に通りで刺されるかもしれません。

あるいは、昨今の国際情勢は、本当にヤバいレベルです。

もしかしたら、健康診断で、がんを宣告されるかもしれません。

 

ということは、この前提条件は、どこかむなしい響きを持つのです。

人生100年というのは、あくまで「そこそこで生きられれば、100歳まで生きられるよ」ということなのでしょう。

 

前提条件を鵜吞みにしない、ということが、「予測ゲーム」から抜け出す考え方だと思います。

 

 

 

そこで、二つめのファクター、「ポジティブであること」が必要になってきます。

 

ポジティブというと、この暗い雰囲気の世の中で、どこか浮世ばなれした印象を持たれてしまうかもしれません。

しかし、こんな世の中だからこそ、ポジティブであることの意義を正確に理解し、その大切さを訴えたいと思っています。

 

「非現実的なことを望むこと」と「ポジティブであること」とは、本質的にまったく違います

 

「非現実なことを望む」とは、「自分ではない誰かになろうとすること」です。

ものごとを判断する基準が、

自分ではなく、他人なのです。

人から言われたこと、どこかで聞いたことを軸とすることです。

 

こうした人たちは、特にここ最近目立つのではないでしょうか。

例えば、「コロナ感染者が増えている!」と、多くの人が焦り、東京をキャンペーンから締め出し、これでとりあえず安心という形を整えているようです。

こういう人たちを批判するつもりはありませんが、ここにいるかぎり、いつも外部からのストレスにさらされ、右往左往し続けることになります。

簡単に言うと、人に振り回されるだけ。

ただ都合よく洗脳され、消耗させられ、終わる。という具合です。

 

つまり、ポジティブであることとは、ここが決定的に違います。

 

ポジティブであることとは、「自分を知ったうえで現実を前向きにとらえること」です。

 

まずポジティブな人の特徴は、「自分は何者か」ということを知っています。

自分が望む理想の自分でもなく、

自分が拒む過去の自分でもなく、

今の自分というのは、何ができて、何ができないのか。

 

そのうえで、「自分のいる現実の世界をニュートラルに見て、ありのままを受け入れる」という力を備えています。

その事実を、他人でなく自分の目と頭を使って、ひとつひとつ精査し、よりよい未来を創ろうとします。

 

つまり、ポジティブな人とは、努力してポジティブになっているのです。

 

前向き(ポジティブ)な人と、非現実な人は違うのです

 

 

いかがでしょうか?

 

これからの時代に必要な私たちのスタンス。

それは、

ヘタに未来を予測しないこと。

そして、

ポジティブであること。

 

この2つがたいへん重要だと思うのです。

 

とかくノイズが多い昨今の社会で、私たちは自分の目と頭を使って、自分ができることを精査し、未来を創っていきましょう。

 

 

未来は予測するものではなく、創るものですからね。

 

 

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

 

 

◆◇◆ 今週の箴言(しんげん)◆◇◆
(ラ・ロシュフコーより)

 

希望と恐れは不可分である。

 

希望のない恐れも、

恐れのない希望も

存在しない。

 

2020/07/21

承認がもつ”猛毒”

こんにちは。
大雨から始まった長雨がいまだに続き、コロナ再拡大の懸念がされていますね。

一日も早い世界の安寧を、心から祈るばかりです。

 

今回は、「承認欲求」について考えてみたいと思います。

 

コロナ拡大により、最近は特に「孤独」を感じる場面が増えてきている方も多いのではないでしょうか。

 

リモートワークが代表的な例ですが、多くの人はそれ以外の生活の中でも多々、孤独を感じていると思います。

そんなとき、私たちは普通、他者とのつながりを求めます。

これは極めて自然な感覚だと思います。

 

ところが、それに似た感覚で、「承認欲求」というのが存在します。

これは、「つながり求める」という感覚とは似て非なるもの、というか、本質的に異なるものです。

 

承認欲求とは何でしょうか。

簡単に言えば、「みんなに私のことを認めてほしい」という本能です。

 

当たり前のように私たちが持っている感覚ですが、じつはこれがかなり厄介なのです。

 

人は誰しも、多少この欲求が備わっていることはよく理解されているのですが、近年、特にSNS界隈で、行き過ぎた人たちが目立っています。

 

承認欲求は例えるなら、一人一人が異なる容量のコップを持っているように、人によって承認を求める強さが違います。

そしてSNSを見れば、けっこうな割合でこうした人たちがあふれているのがわかります。

毎日のように自分の顔をupしていたり、

過去に「いいね」の多かった写真を何度もupしたり、

「映え」を狙って奇抜な言動の動画をupしたり…

 

じつのところ、私はこういったタイプの人たちが苦手でして、あまり近づかないように気を付けています。

なぜなら、この行き過ぎた承認を求める人たちは、どこまで行っても満たされることがないため、

常に「もっと、もっと」と、自分を認めてほしいと求めてくるからです。

 

しかも、このタイプの人たちの特徴として、

自分の弱みと向き合えなかったり、

自分にコンプレックスがあったり、

ということが多く、

その結果、自分以上の自分を演出してしまうことが多いようです。

 

自分のことが好きになれない、という本質的な課題を抱えていながら、それに気づきません。

 

また、こうした人たちは、自分の闇が深い分、外に向かって強烈な光を放つ傾向にあり、

その光に多くの人が引き寄せられます。

しかし、どれだけ人が集まってきて自分を褒めてくれようが、いっこうに満たされる気配がないのは不思議です

 

 

私は心理学の専門家ではありません。

しかし、仕事を通した多くの実地経験を通して、こう思うにいたりました。それは、

 

「自分の器を自分で満たすことができない」ために、他人に満たしてもらおうとしているのではないか、と。

 

そして、いっこうに満ちることがない承認欲求にいつか気づくことになり、

そのとたん、舞台から去るように、SNSから姿を消してしまったり、引きこもりになってしまったり、病気になってしまったりと、

極端な闇に引き戻されていくのではないでしょうか。

 

承認欲求の強すぎる人たちの分析はここまでとして、

ここからは、そんな人たちが本当に気を付けなければならないことを挙げていきます。

 

一見カリスマがあるように見える、こうした強すぎる承認欲求をもつ人たちは、

どんなに内容のないことや、つまならない呟きを吐いても、「すごいですね」「かわいいですね」と言ってもらえます。

 

しかし、よくよく気を付けなければなりません。

 

「すごいですね」「素敵ですね」というのは、どんな人でも言えるということです。

 

ここに、承認という行為の”毒”が潜んでいます。

「かわいいね。素敵だね。そう言っておけば、その場は喜んでくれる」

 

そのことがわかってしまえば、

この「承認する」ということを、いくらでも悪用する人たちもまた存在する、ということです。

 

これは、例えばホストクラブやキャバクラに通いつめてしまう人たちの心理状態に、近いのではないでしょうか。

「あそこに行けば…お金さえたくさん使えば…褒めてもらえる」

その一瞬の承認欲求の充足のために、いったいどれほどの時間とお金を使うのでしょう。

 

つまり、行き過ぎた承認欲求を持つ人たちが陥るワナは、

「手っ取り早く褒めておけば、コントロールできる」と、人に思わせてしまう、ということです。

恐ろしいことです。

これは、「軽く扱われる人」に、みずからなってしまうということなのです。

そして、承認を悪用する人は、どんどん周りに増えてくるでしょう。

 

 

 

では、結論をそろそろ。

 

”自分の器は、自分で満たしましょう”

 

けっして人に満たしてもらおうとしないことです。

外に求め続けるかぎり、どれだけお金があってもキリがありませんし、いつかどこかで消耗しきってしまいます。

承認に含まれる猛毒は、麻薬のような常習性を備えています。一度ハマったら抜け出すのが大変です。

 

自分のことは好きでも嫌いでも、どっちでも良いのです。

実際のところ、私も自分のことにあまり興味も関心もありません。

 

しかし、行き過ぎた好き嫌いにはならないことが肝要です。

 

繰り返しますが、自分の闇と向き合うことから逃げてはいけません。

その穴を、他人からの「承認」で満たすようになってしまうからです。

 

この時期、自分と向き合ってきた人たちは、たくさんいるのではないでしょうか。

時代が求めているのは、ある意味こうした「強さ」を持つ人たちなのではないかと、最近思います。

 

強くなりましょう。

 

 

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

 

◆◇◆ 今週の箴言(しんげん)◆◇◆
(ラ・ロシュフコーより)

 

この世でもっとも幸福な人は、
わずかなもので満足できる人である。

 

なぜなら、
欲しいものが多ければ多いほど、
満足するには、
限りない財宝の山が
必要になるからである。

 

2020/07/13

ふつうの人の視点で考えた「変われない理由」

こんにちは。

 

先週のコラムで、熊本の大雨についてのお見舞いを述べた直後のこと、

私の郷里である飛騨高山にも同レベルの大雨が集中し、各所で被害が出ました。

 

不幸中の幸いか、私の実家に被害はありませんでしたが、

それにしても「数十年に一度の自然災害」が「毎年」起きていることに、

これは異常ではなく、日常になってしまったんだと思わざるをえませんでした。

去年観た映画『天気の子』の世界と、リアルの世界がどこかリンクしたような思いがしました。

 

新型コロナウィルスは見事なほどに終息の気配を見せず、そこに来て自然災害の襲来。

「これでもか」というほどの、大自然による主張。。。

 

ひょっとすると私たちは、まだまだ甘かったのかもしれません。

コロナウィルス拡大にともなって、私たちは行動変容や生活様式の変容の必要性を感じ、

自分たちなりに「これくらいで良いかな」ということをやってみてはいたのですが、

 

もしかすると、

「そんなレベルでは、まだまだ地球を救えないんだよ」

と言われているのもしれません。

 

「人間に対して地球が求めている危機感レベルは、そんな軽いものじゃない」

ということなのでしょうか。

 

私は職業柄、よくこんなセリフを耳にします。

「うちの社員は危機感が足りない」

 

どんな企業だって、こういった言葉が聞こえてくるのは珍しいことではないでしょう。

 

しかし、私の本音はちょっと違います。

「たいていの人にとって危機感というのは、実際にそれが起きてみないと湧かないものですよ」と。

 

理解あるわずかなクライアントには、そっと耳打ちをしたことがあるのですが、これが現実だと思っています。

 

それは例えば、

自分が太ったと気づいてからダイエットを始める、といったような例です。

太る前に危機感を抱く人は、かなりの少数派でしょう。

 

このように、早い時期から危機感を持つタイプの人というのは、たいへん限られています。

 

どんなタイプの人たちでしょうか。

・経営責任を負っている社長

(役員はあえて外します。中には信じがたいほどの甘ちゃんもいるので)

・その企業に出資している投資家や株主

・抜群の愛社精神をもつ社員

くらいでしょう。

 

こうしてみると、危機感をもつタイプの人というのは、ずいぶんと少数派だということがわかりますね。

企業の従業員の割合でいうと、1割もいないのではないでしょうか?

 

こうしたマイノリティの声というのは、大海に注がれたコップの水のごとく、だいたいの場合、いつの間にかかき消されてしまいます。

そして、不思議なことに、マジョリティというのは、

・悲観的な声はすぐに忘れ

・楽観的な声はすぐに信じる

という特性を持っています。

 

これは、新型コロナウィルス拡大が始まる直前のことを思い出せば、誰もが「ああ」と納得するはずです。

当時、パンデミックを予測した数少ない有識者は、世間に「馬鹿」だの「狂ってる」だのと言われ、相手にされませんでした。

そして今や世間は、その数が逆転し、「コロナはただの風邪だ」なんて言おうものなら、袋叩きにされかねません。

 

 

こうしたこととまったく同じことが、いち企業でも日々起きているのです。

 

 

人が、自己変容できない理由。それは、

 

危機感を持つことが、そもそもできないから。

つまり、私たちは、実際に落ちるところまで落ちないと、わかないようにできているから。

 

そう私は思っています。

コラムでは何度も述べている通り、人は「失敗」からしか学べないと思っています。

 

ですから、一部の優秀な人たちに申し上げたいのは、

「お前たち、危機感を持て」と言っても、ムダに終わるかもしれない

ということです。

 

一瞬、「たしかに、マズいな」と思ったとします。

しかし、次の瞬間、隣の同僚から、「今日、ランチなに食べようか?」と声をかけられれば、

イメージの対象は、空腹を満たす蕎麦とかスパゲッティにすり替わってしまうわけです。

 

前号でも述べたように、現代人は、自分たちは進化した人類だと思っているフシがあるようです。

しかし、私はそれこそが、現代人をアップデートさせていない、とんでもない思い込みだと思っているのです。

 

 

ここから、私なりの結論です。

 

人は相変わらず弱い。

ゆえに、

自己変容は、後追いでも良いから、劇的にやらないと、生き残れない。

 

と真剣に思っています。

 

 

今年に入ってのパンデミック、そして自然災害。

自然は私たちに、「いい加減、ガラリと変わりなさい」と、啓示を与えてくれているように思えて仕方ありません。

 

ちょっとずつではなく、劇的な自己変容が必要なのかもしれませんね。

 

 

被災者、感染者、その関係者の方々にとって、一日も早く平穏が日が訪れることを祈っています。

 

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

 

 

◆◇◆ 今週の箴言(しんげん)◆◇◆
(ラ・ロシュフコーより)

 

真の苦行とは、まったく人に知られることのない苦行である。

 

そうでないものは、虚栄心によって楽になる。

 

 

2020/07/07

私たちが偏見を手放せない理由

こんにちは。
リバース・フロウの清原です。

 

九州エリアの大雨で被害に遭われた方々に、心よりお見舞い申し上げます。

新型コロナウィルス拡大の最中、自然災害が追い打ちをかけるような状況に、さぞかし耐え難い思いをされていることと思います。

 

 

今回は、このコロナ騒動が世界を巻き込んで、浮き彫りにしたひとつの問題を取り上げて考察します。

それは、「偏見・差別」です。

 

私は毎年、夏休みになると家族を連れて、故郷の飛騨高山に里帰りをするのを楽しみにしています。

特に高校と中学の息子たちは、毎年夢中になって川に潜って魚を捕ったりするほどです。

 

しかし今年は、早々に帰省をあきらめました。

 

母親からもらった悲痛なLINEの内容を読んで、そうせざるを得なかったのです。

そのLINEには、東京から来た人たちはもちろん、やむを得ない事情で東京に行ってきた人たちに対する、

一部の地元住民によるえげつない差別的な言動が載っていました。

差別の理由は、コロナ感染に対するものです。

 

母親は、「とても残念だけど、身の安全のためにも、今年は…」とのことでした。

がっくりと肩を落とす中二の次男。。。

何より辛いのは、毎年孫の顔を見るのを楽しみにしていた、私の両親でしょう。

東京育ちの母親は、「まあ、田舎ってのはそんなもんだから」と。50年近く高山に住み続けてきた母なりの、あきらめのような言葉に、なんとも言えない気分になりました。

 

私の郷里ではいまだ一人も感染者が出ていないため、そんな一部住民の気持ちが、わからなくはありません。

しかし、現代は情報化社会とまで言われています。

新型コロナの情報は世界中で精査され、日々アップデートされており、どんどん正確さを増しているという状況です。

 

いまだにノイズは多いとはいえ、少しでも自分なりに情報を精査する知恵さえあれば、そうした自分たちの言動が理性的でないことは、気づいても良いはずなのですが。。。

しかし、いざというとき、理性をまさる何かが、人を差別的言動に走らせているようです。

 

この件に触れて、私はとっさに、あの「東日本大震災」の被災者の方々を思い出しました。

被災者の方々は、住む家がなく、埼玉や千葉、神奈川や東京にも避難せざるを得なかったことは記憶に新しいですが、

なんとそこでも、学校や近所で偏見と差別に苦しんでいた、ということです。

なにも、田舎だから偏見が強いわけではないのです、

都会でさえが、このありさまです。

 

今を生きる現代人は、人間として進化した姿であると、なんとなく私たちは無意識に思っています。

歴史上、人身売買や不当な人種差別など、さまざまな「不公平」を克服してきたのだと、

さも自分たちが進化した末の姿であると、誇らしく思っているのかもしれませんね。

 

しかし、いったん事が起きれば、都会であろうと田舎であろうと、全国津々浦々、このありさまです。

 

そこで、考えてみました。

私たち現代人がいかにも理性的であるかのように見えるのは、単に、環境が平和だからに過ぎないのではないか、と。

つまり、平時においては、私たちはいつもニコニコ穏やかにできているわけです。

 

ところが、有事。

つまり、この新型ウィルスによってあぶり出された人間の闇は、

その精神性の脆弱さばかりでなく、

 

「結局人間というものは、さほど進化していなかったんだ」と、

思い知らせてくれているように、私には思えます。

 

私たち現代人は、

清潔できらびやかな服を身にまとい、

驚異的に進化した便利なツールを使いこなし、

口では「ダイバーシティ」「インクルージョン」と声高に唄います。

特に21世紀に入ると、差別をなくすような法律もどんどん成立しています。

 

ところがそれは、私たち自身が進化したからではないのではないか。

そうではなく、例えば、

 

・身の回りの争いごとが激減した

・生活できる以上のお金を手にした

・知識が急速に増えた

 

つまり「平和」になった。

それだけのことだったのかもしれません。

 

こうした条件がそろえば、人には「余裕」ができます。

物理的に満たされ、同時に精神上の「安心・安全」を感じます。

不公平感が薄らぎ、争う必要がなくなるわけです。

 

そして、そんな状態が続けば、

私たちは「いったい人はなぜ争うの?」というようなことを思い始めるでしょう。

ともすると、上から目線で、争っている人たちを「下等だ」とまで思うようになるかもしれません。

 

しかし、それは、忘れているだけです。

自分たちは、いざとなったとき、弱者やマイノリティを差別しようとする本能を

ぜんぜん克服できていないことを。

 

事実、人類の脳みそは、大型化するどころか、過去3万年で10%も小さくなっているというではありませんか。

(米国科学誌「Dsicover)」)

 

つまり、

普段は穏やかで気品あるふるまいをしていても、

いざ有事となったときは、その本性は変わらない姿で出てきてしまう、

ということなのではないでしょうか。

 

そこで、さらに考えてみました。

進化どころか、退化すらしている現代人は、なんで偏見や差別から解放されないのだろうか、と。

 

前提として、先ほど述べたように、現代の私たちには「余裕」が生まれたことにあるのですが、

さらに進んで考えると、主な2つの要因が、人を偏見と差別に走らせていると思います。

 

ひとつは、「無知」だから、です。

もうひとつは、「ヒマ」だから、です。

 

情報化社会である現代は「情報過多」ともいわれます。

私もしょっちゅう経験しますが、とかく世の中ノイズが多すぎて、なかなか正しい情報を得られません。

しかし、あきらめずに追及すれば、意外なほど早くそこにはたどり着けます。

 

だから、偏見や差別は、「無知」だからするのだと思います

正しく知ってさえいれば、私たちの恐れていることは、それほど怖いものではなかったりするはずです。

本当に恐れるべきものは、自分自身の中にあったということさえ、わかるかもしれません。

 

そして、偏見や差別をするのは、する側が「ヒマ」だからです。

有り余っている時間を、自分や家族を豊かにするために使うことを知らない人たちが、たくさんいるのではないでしょうか。

時間の使い方を知らない人というのは、「ヒマ」な人と言えます。

 

ヒマだから、人のことが気になるのです。

ヒマだから、どこか満たされない気持ちになるのです。

 

反対に、

満たされていれば、感謝の念が生まれます。

満たされいれば、周りを満たそうとします。

 

 

こう考えると、やはりたどり着くのは、

「時間」と「金」の使い方になります。

 

時間とカネは、私たちに許された、限られた制御可能な資産です。

 

余裕のできたこれらの資産を、どう振り分けるのか?

けっして、人を貶めるようなことに使ってはいけないことだけは

明らかだと思います。

 

残念ながら、私はこの世から「不公平」も「差別」もなくならないと思っています。

だからこそ、時間とカネのコントロールに、フォーカスしなければならないと思います。

 

自分と自分の大切な人のために、時間とカネを戦略的に活用して、

無知・ヒマを克服し、

偏見・差別を追いやりましょう。

 

人間、さほど進化などしていないのです。

みずからを過信しないよう、謙虚に生きましょう。

 

世界にとって平穏で健康な日々が一日も訪れることを願って。

 

 

本日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

 

◆◇◆ 今週の箴言(しんげん)◆◇◆
(ラ・ロシュフコーより)

 

才があって

愚かな人はいるが、

分別があって
愚かな人はいない。

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