2020/07/07

私たちが偏見を手放せない理由

こんにちは。
リバース・フロウの清原です。

 

九州エリアの大雨で被害に遭われた方々に、心よりお見舞い申し上げます。

新型コロナウィルス拡大の最中、自然災害が追い打ちをかけるような状況に、さぞかし耐え難い思いをされていることと思います。

 

 

今回は、このコロナ騒動が世界を巻き込んで、浮き彫りにしたひとつの問題を取り上げて考察します。

それは、「偏見・差別」です。

 

私は毎年、夏休みになると家族を連れて、故郷の飛騨高山に里帰りをするのを楽しみにしています。

特に高校と中学の息子たちは、毎年夢中になって川に潜って魚を捕ったりするほどです。

 

しかし今年は、早々に帰省をあきらめました。

 

母親からもらった悲痛なLINEの内容を読んで、そうせざるを得なかったのです。

そのLINEには、東京から来た人たちはもちろん、やむを得ない事情で東京に行ってきた人たちに対する、

一部の地元住民によるえげつない差別的な言動が載っていました。

差別の理由は、コロナ感染に対するものです。

 

母親は、「とても残念だけど、身の安全のためにも、今年は…」とのことでした。

がっくりと肩を落とす中二の次男。。。

何より辛いのは、毎年孫の顔を見るのを楽しみにしていた、私の両親でしょう。

東京育ちの母親は、「まあ、田舎ってのはそんなもんだから」と。50年近く高山に住み続けてきた母なりの、あきらめのような言葉に、なんとも言えない気分になりました。

 

私の郷里ではいまだ一人も感染者が出ていないため、そんな一部住民の気持ちが、わからなくはありません。

しかし、現代は情報化社会とまで言われています。

新型コロナの情報は世界中で精査され、日々アップデートされており、どんどん正確さを増しているという状況です。

 

いまだにノイズは多いとはいえ、少しでも自分なりに情報を精査する知恵さえあれば、そうした自分たちの言動が理性的でないことは、気づいても良いはずなのですが。。。

しかし、いざというとき、理性をまさる何かが、人を差別的言動に走らせているようです。

 

この件に触れて、私はとっさに、あの「東日本大震災」の被災者の方々を思い出しました。

被災者の方々は、住む家がなく、埼玉や千葉、神奈川や東京にも避難せざるを得なかったことは記憶に新しいですが、

なんとそこでも、学校や近所で偏見と差別に苦しんでいた、ということです。

なにも、田舎だから偏見が強いわけではないのです、

都会でさえが、このありさまです。

 

今を生きる現代人は、人間として進化した姿であると、なんとなく私たちは無意識に思っています。

歴史上、人身売買や不当な人種差別など、さまざまな「不公平」を克服してきたのだと、

さも自分たちが進化した末の姿であると、誇らしく思っているのかもしれませんね。

 

しかし、いったん事が起きれば、都会であろうと田舎であろうと、全国津々浦々、このありさまです。

 

そこで、考えてみました。

私たち現代人がいかにも理性的であるかのように見えるのは、単に、環境が平和だからに過ぎないのではないか、と。

つまり、平時においては、私たちはいつもニコニコ穏やかにできているわけです。

 

ところが、有事。

つまり、この新型ウィルスによってあぶり出された人間の闇は、

その精神性の脆弱さばかりでなく、

 

「結局人間というものは、さほど進化していなかったんだ」と、

思い知らせてくれているように、私には思えます。

 

私たち現代人は、

清潔できらびやかな服を身にまとい、

驚異的に進化した便利なツールを使いこなし、

口では「ダイバーシティ」「インクルージョン」と声高に唄います。

特に21世紀に入ると、差別をなくすような法律もどんどん成立しています。

 

ところがそれは、私たち自身が進化したからではないのではないか。

そうではなく、例えば、

 

・身の回りの争いごとが激減した

・生活できる以上のお金を手にした

・知識が急速に増えた

 

つまり「平和」になった。

それだけのことだったのかもしれません。

 

こうした条件がそろえば、人には「余裕」ができます。

物理的に満たされ、同時に精神上の「安心・安全」を感じます。

不公平感が薄らぎ、争う必要がなくなるわけです。

 

そして、そんな状態が続けば、

私たちは「いったい人はなぜ争うの?」というようなことを思い始めるでしょう。

ともすると、上から目線で、争っている人たちを「下等だ」とまで思うようになるかもしれません。

 

しかし、それは、忘れているだけです。

自分たちは、いざとなったとき、弱者やマイノリティを差別しようとする本能を

ぜんぜん克服できていないことを。

 

事実、人類の脳みそは、大型化するどころか、過去3万年で10%も小さくなっているというではありませんか。

(米国科学誌「Dsicover)」)

 

つまり、

普段は穏やかで気品あるふるまいをしていても、

いざ有事となったときは、その本性は変わらない姿で出てきてしまう、

ということなのではないでしょうか。

 

そこで、さらに考えてみました。

進化どころか、退化すらしている現代人は、なんで偏見や差別から解放されないのだろうか、と。

 

前提として、先ほど述べたように、現代の私たちには「余裕」が生まれたことにあるのですが、

さらに進んで考えると、主な2つの要因が、人を偏見と差別に走らせていると思います。

 

ひとつは、「無知」だから、です。

もうひとつは、「ヒマ」だから、です。

 

情報化社会である現代は「情報過多」ともいわれます。

私もしょっちゅう経験しますが、とかく世の中ノイズが多すぎて、なかなか正しい情報を得られません。

しかし、あきらめずに追及すれば、意外なほど早くそこにはたどり着けます。

 

だから、偏見や差別は、「無知」だからするのだと思います

正しく知ってさえいれば、私たちの恐れていることは、それほど怖いものではなかったりするはずです。

本当に恐れるべきものは、自分自身の中にあったということさえ、わかるかもしれません。

 

そして、偏見や差別をするのは、する側が「ヒマ」だからです。

有り余っている時間を、自分や家族を豊かにするために使うことを知らない人たちが、たくさんいるのではないでしょうか。

時間の使い方を知らない人というのは、「ヒマ」な人と言えます。

 

ヒマだから、人のことが気になるのです。

ヒマだから、どこか満たされない気持ちになるのです。

 

反対に、

満たされていれば、感謝の念が生まれます。

満たされいれば、周りを満たそうとします。

 

 

こう考えると、やはりたどり着くのは、

「時間」と「金」の使い方になります。

 

時間とカネは、私たちに許された、限られた制御可能な資産です。

 

余裕のできたこれらの資産を、どう振り分けるのか?

けっして、人を貶めるようなことに使ってはいけないことだけは

明らかだと思います。

 

残念ながら、私はこの世から「不公平」も「差別」もなくならないと思っています。

だからこそ、時間とカネのコントロールに、フォーカスしなければならないと思います。

 

自分と自分の大切な人のために、時間とカネを戦略的に活用して、

無知・ヒマを克服し、

偏見・差別を追いやりましょう。

 

人間、さほど進化などしていないのです。

みずからを過信しないよう、謙虚に生きましょう。

 

世界にとって平穏で健康な日々が一日も訪れることを願って。

 

 

本日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

 

◆◇◆ 今週の箴言(しんげん)◆◇◆
(ラ・ロシュフコーより)

 

才があって

愚かな人はいるが、

分別があって
愚かな人はいない。

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