こんにちは。
いよいよ年の瀬ですね。
町の様子を見ていると、去年よりも人出が多く、少しにぎわっています。楽しそうな顔をしている人たちが増えるのは、社会にとってもたいへんうれしいことだと思います。
今回のテーマも、「アート思考」から考えてみたいことです。
自由な発想というものについて、考えてみましょう。
そもそも自由な発想って生まれるのか?
「もっと自由な発想でものごとを考えよう」
「古い考えにとらわれないで、発想の幅を広げよう」
こんなセリフは昔から職場でよく聞かれるものですね。
ものの見方が凝り固まり、皆でスタックしてしまうとき、この「自由な発想」というのが大切なのは、理屈ではわかるはずです。
でも、「自由な発想をしろと言われても…」
と、困ってしまうことってありますよね?
むしろ、そのセリフが出た瞬間から、場が固まるような…
その理屈はたぶん、こうではないかと。
自由な発想を妨げるもの
「自由な発想をしろ」という言葉を合図に、
「自分の考えは否定されるべき古い考えなんだ」とか
「自分のアイデアは古いから、言うと否定されるんだ」など
自分の意見をむしろ自由に言えなくなってしまうようなプレッシャー。
この、「自由な発想をしなければ!」
そんなプレッシャーが、自由な発想を、むしろ押し殺してしまうことになっているのではないかと。
本当に発想を広げるなら
では、こんなプレッシャーを感じることなく、本当に自由な発想を求めるなら、どんな合図が必要なのでしょう?
それは、この一言です。
「違和感は?」
はい。違和感を口にする、ということです。
人の思考は、枠を本当に取り払われてしまうと、どうして良いのかわからなくなります。
むしろ慌ててしまい、かえって発想のスケールが小さくなってしまいます。
「なんでも良いから自由に発想してみろ」 そう上司に言われたとき、実際はどんな気持ちになりますか? 「そうは言いますが、ぜったい否定しますよね?」 「言いたいことはわかるのですが、どの程度まで言ってOKですか?」 きっとこう思う人は多いと思います。
つまり、ここに「警戒感」という2つ目の阻害要因があるわけです。
違和感こそ、発想の源泉
プレッシャー、警戒感…
これらが自由な発想を阻害するとすれば、どうしたら?
自由な発想とは、ほんとうに際限なく発言が許容される環境が担保されてこそ、出てきます。
でも現実的に、そのことが完璧に担保されている組織などほとんどないでしょう。
あったとしても、それは組織の力というよりは、個人の「KY力」のおかげだったりします。
つまり、「際限なく」と言って促すことは、 一般的に言って、得策ではないのです。 もっと思考の範囲を限定することから始めたほうが良いのです。
それはやはり
「これについて違和感は?」という、
ソフトに限定された投げかけです。
「そういえば、なんとなくこの部分に違和感を感じる」 「言われてみれば、なんでこの部分はこうなんだろう」
そうした、身近で自然な感覚を呼び起こす「問いかけ」によって、発想は広がりのスタート地点に立ちます。
大きなものを創造したかったら…
いかがでしょうか。
つまり、大きな発想がほしかったら、「小さな問いかけ」から、です。
自由で広がりがほしいときほど、足元から始める。
ということですね。
創造も、当たり前の感覚から。
イノベーションも案外、身近で生まれた違和感から、だったりしますね。
今日から身の回りの違和感を、大切にしてみましょう。
そして何より、そんな違和感を気軽に口にできる環境を、リーダーの皆さんは整えてあげてください。
すぐに役に立つアイデアをすぐに出させる、なんて、野暮なことはやめましょう。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。
本日の箴言 (ラ・ロシュフコーより) 人に退屈だと思われないようにすることを大切だと思っている人々に限って、きまってわれわれを飽きさせる。
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